写真:ながいの氏 https://flickr.com/photos/98189432@N07/24338188949

串カツと鉛筆に見る小さくて無限の宇宙

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大阪の串カツが「二度漬け禁止」を変更し、容器を撤廃してソースのボトルを設置するという。

関西出身でもなければ串カツが大好物というわけでもないので、そもそも論じる資格が不足していることは自覚している。ただ、食べに行けばおいしいと思うし、東京でたまに串カツを食べに行くくらいは好きだというくらいで、以下ご勘弁いただきたい。

その上で、「これは違うんじゃないか」という気がする。少なくとも関西で串カツが好きな方は、心の底ではそう思っているのではないか、と。

もちろん、新型コロナウイルス感染症対策を徹底する観点からすれば、ソースの容器を撤廃するのは妥当である。なにしろ2度漬け禁止と謳うくらいなので、「まあそんなに衛生的とは言えないよね…」ということは分かっていたはずだ。

しかしそのちょっとしたスリルも含めて、浸して食べるというのがスタイルであり、そうした体験を含めた味だ、ということである。やはりボトルからソースを「かける」のは違う。浸すというだけなら、ジップロックを渡して袋の中でビショビショにした方が、まだ近そうだ。ただそうすると、きっと揚げ物は急に湿気って、サクサク感や歯ごたえが失われる気もする。というかそれはもう体験としては串カツではない。

というわけで、苦渋の決断なのだろう。命より大切な串カツはない。それは分かるのだが、でもやっぱり違うのだ。だからこそ「悲しい」のかもしれない。

ところで、串カツにそれほど愛がないはずの人間が、なぜそこまで拘っているのかというと、このニュースを見かけた時、子供が使う鉛筆を削りながら、シャープペンシルと鉛筆の違いについて考えていたからだ。

シャープペンシルが普及して久しいが、どっこい鉛筆は消えてはいない。削る手間を考えれば明らかにシャープペンシルに軍配が上がるのだが、鉛筆は健在である。特に小中学生のお子さんがいるようなご家庭であれば、そこら中に転がっているだろう。それどころか、仕事を始めて普段使いがボールペンに移行した時、改めて消しゴムで消せる筆記具で書く機会があると、筆者はむしろ積極的に鉛筆を選んでいる。その大きな理由は、書き味だ。

学生時代は、シャープペンシルを使っていた。しかし当時主流だった0.5mm芯は、どうしても紙に引っかかる感じがした。一方鉛筆は、滑らかな書き味で、ストレスがない。しかしたまに削らなければいけない。それが面倒だった。

そんなシャープペンシルの利便性と書き味の悪さの折り合いを、紙質の改善に求めようとした時期もあった。すなわち、ノートの買い替えである。しかし今度はそうしたノートの肌触りが気になった。すべすべしすぎて、置いた手が落ち着かないのだ。

断っておくが、筆者は神経質どころかむしろズボラな性格である。昔も今も、それは変わらない。しかし日に数時間も触れあうモノでは、さすがに気になったのである。

そう、それこそが、決定的な分かれ道だ。別に真面目な生徒ではなかったが、小学校で普通に6時間目まで授業を受け、帰宅して宿題や落書きをしていれば、日に300-400分は鉛筆で何かを書いていることになる。24時間中の5-6時間といえば、もはや短めの睡眠時間に等しい。だとしたら、枕や布団の寝心地と同じようなこだわりは自然と発生するし、その時間を快適に過ごすことは、もはや手段ではなく目的である。さらにそれは、少なくとも学期中は毎日行われる日常なのだ。

この両者を比較してみた時、求めているものや提供価値が、微妙だが決定的に異なることに気づく。シャープペンシルは、芯を削り出す手間を省いた。一方でその便益と引き換えに、書き味の良さを失った。もちろんそこに価値を見出す人もいるだろう。ところが客観的に比較してみると、鉛筆を削る時間は、削り器を使えば10秒、ナイフでも1分だ。一方、何かを書いている時間は、それに比べて圧倒的に長い。

しかも、大人になってみて気づいたことは、鉛筆を削っている時間の貴重さだ。特にナイフで鉛筆を削ると、どうしても怪我をしないように、慎重かつ集中するようになる。つまり、日常の雑念から解放される1分間が、そこで生まれるのだ。こうなるともう、専ら鉛筆である。

写真:Dvortygirl 氏
 https://www.flickr.com/photos/dvortygirl/2376598010

鉛筆とシャープペンシルの違いは、一見すると微妙かつ小さなものである。しかし両者は、目指すものが決定的に違うのだ。だから鉛筆の需要をシャープペンシルでは必ずしも満たしきれないし、選択肢がある以上は鉛筆を選ぶこともできる。そうして両者は平面曲線の漸近線のように、限りなく接近しながら永遠に交わらない。

ソースを「浸す」と「かける」の違い。あるいは「鉛筆」と「シャープペンシル」の違い。いずれも細かなことかもしれない。しかし文化とは細かなことの積み重ねでもある。そして新型コロナウイルスによって、我々は改めて「人間にとってヒューマンタッチとは何か」ということを問われている。

世界中の多くの人たちが、キスやハグや握手の意味を大真面目に話し合い、悩んでいる。そんな時には、我々が意識していなかった感覚のレベルから問い直し、似て非なるものに拘り、何を価値として求めているのかを明らかにすることが必要だ。

そこにこそ、我々が文化を継承するために、必要かつ受け入れ可能な変化の実態が潜んでいるはずだし、それを見つけなければもしかすると人間は串カツを「ソースに浸す」ことが永遠にできなくなるかもしれない。知らんけど。