オフライン授業のデジタル化ではなくその先を考えたいオンライン学習

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オンラインの授業、セミナー、プレゼンテーション、また趣味の集まりなどに関連するニーズは、今後も高いまま維持されるだろう。一方で、Zoomなどの画面共有とか、黒板の代わりにペンタブレットで書くというのは全くもっていまひとつの使用感だ。

たとえば黒板というUI/UXはかなり秀逸である。理由の一つには、話し手が写っていて書いている様子が見られることだと思う。文字が手から放たれるからだ。授業やプレゼンテーションなどの形式や、登壇者と参加者の関係性には依存するのだが、学校の講義形式の授業では先生(役)はある種の権威付け、有難味が必要だ。歴史上の為政者や宗教家が様々な方法でそうしたように、先生の手から文字が放たれることはとても重要ではないのか。手書き文字は放たれるところがこそが重要なのであって、それ以外は情緒的な部分はあるにせよ、単なる見にくい記号でしかない。そしてこのことは、板書という行為が教科書や書籍とは別の体験価値を生み出していることを示している。

定点撮影した授業の動画を自動編集するiOSアプリ「Lecta」は秀逸なアプリだ。これはオリジナルの広い画像(1080p 30fps)から人物周辺をオブジェクト検出しながらリアルタイムトラッキングして切り出している。類似のものとしては筆者も利用しているMevoというカメラがある。こちらは4Kから最大7画面の切り出しだ。

さて、ここまでの話は既存の学校の授業のように、一人の先生の話を複数の生徒が聞くという形式をオンライン化しようとするアプローチである。このことは現時点では正しいと言える。しかし、果たして本当にこれだけでいいのか。

Zoomなどを使っていると、確かに参加者全員の参加意識があり、1画面に収まるくらいの人数の範囲で、皆が積極的に発言を行うという状況であれば、オフラインで一箇所に集まる必要は殆どないと思う。しかしセミナー的なものにオーディエンスとして参加するときの緊張感の無さ、現実味の無さは何なのか。画面共有で資料を見ているときの他人事感は何なのか。ましてや教室での授業は正直ほとんどつまらないものでしか無い。それをオンライン化したところで、まともなもので出来上がると考える方が問題だ。

オンライン学習はある種の必然になるかもしれない。なんと言っても居住地に左右されないことは決定的なメリットだ。 黒板のディスプレイやプロジェクター化、教科書のデジタル化。これらは既存の教室のデジタル化でしか無い。教室でやっていた授業をできるだけそのままオンラインの載せようという発想を一度捨てた方がいい気がする。スマホネイティブな世代、スマホが万能とは全く思わないが、とこうしたツールについて、学習の仕方について徹底的に話し合って考えるべきことだと思う。特定のキャンパスを持たないミネルバ大学あたりの取り組みはヒントになるのかもしれない。

本来は既存の教室のデジタル化の先にやってくるはずだったことが、いま我々はいきなり目の前で問われているのではないだろうか。