Google Photoの作るムービーのクオリティに恐怖する

AI /

子どもが生まれてから、月々500枚から2,000枚ぐらいの写真を撮っている。私はカメラやレンズに興味があるわけではないし、センスも技術もない。ただ、家族と遊びに行けば、その瞬間を残しておきたかったり、写真を撮ること自体がコミュニケーションになっていたりで、いつの間にかそのような枚数になる。具体的なアウトプットがあるわけでもないため、ただひたすらに溜まってゆく。

そのようにしてスマートフォンに膨大な写真が蓄積されていく私にとって、Google Photoは救世主のような存在だ。何も意識しなくてもAIが、この膨大な写真を自動的に整理してくれる。写真のExifから位置情報をもとにして私が旅行に行ったと判定して「旅行の思い出」アルバムとしてまとめてみせたり、顔認識だけで小学生の息子を生後数日まで遡って同一人物として認識してみせる。ストックしていくだけではなく、写真をもとに美しく加工することを提案したり、連写した写真をもとにアニメーションを作ってくれたりする。また、写真や動画を組み合わせてムービーをつくることもある。本当にすばらしいサービスだと思う。

ただ、手放しで喜んで使っていたGoogle Photo だが、子供の成長記録のムービーを生成し、そしてそれに私が感動させられたとき、恐怖に近い感情を持った。

人は、過去の一連の出来事を思い出すとき、それ全体を思い出すのではなく、断片的な記憶をもとにし、それらが整合性が保たれるようにストーリーを再構築するそうだ。もしこのまま10年も20年もGoogle Photoを使い続けていけば、私が断片的な記憶を呼び起こすのにGoogle Photoへの依存が大きくなることだろう。そのとき、自分が事実として認識している思い出は、本当に事実なのか、それともGoogle Photoの編集によってコントロールされたものなのか、自分だけでは判断がつかめなくなってしまう気がした。このような懸念は、周回遅れなのだろうとは思う。すでにFacebookのタイムラインでは、ユーザーが心地よく滞在できるようパーソナライズをしているように、私たちはAIが編集したメディアを通して世界を見るようになってきており、そのこと自体はすでに珍しいことではない。何を今さらという話ではある。しかし、AIの作ったムービーに心が動かされるような思いをしてしまうと、また感じ方が違うものだ。

そこで、この恐怖から逃れるため、いまはGoogle Photoとともに、完全手作業で写真の整理が求められる写真サービスFlickrを使い、改めて写真の整理作業をおこなっている。「自分で選ぶ」「自分で紡ぐ」作業を通すことで、自分の記憶を取り戻せるのではないかと思っている。ただ、手元にある写真と動画は、とんでもない量である。年末年始の休暇中にと取り組み始めるものの、休暇中は整理が進む以上にシャッターチャンスの連続であり、整理対象の写真は減るどころか増えてしまった。情報過多の時代、自分の記憶と過去を取り戻そうというのも、なかなか大変だ。